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上映会に寄せて

いつもニコニコと笑顔で現場を和ませてくれていた山際さんが、突然逝ってしまわれました。その報せが余りにも唐突だったので未だに実感がわかずに、ひょっこりと顔を出してくれそうで、今も携帯の番号を消せずにいます。

私の30日間の不食の追っかけ映像も山際さんに相談したところ二つ返事で引き受けてくれて、息子のマリオくんを一月間現場につかせてくれたのでした。時々その様子を見に来てくれた山際さんの訪問を楽しみにしていたものでした。

山際さんのプロデュースされた作品にはそのお人柄が反映されてか、心温まる作品が多いと思います。人気のあるプロデューサーで忙し過ぎた無理が祟ったのはつくづく残念ですが、山際さんが生み出された作品は今後も永く人の心を打ってくれることと思います。ご冥福をお祈りいたします。

俳優 榎木孝明 Takaaki Enoki

山際さんとは、2005年に公開された映画「逆境ナイン」の出演の際に、初めてお会いしました。

映画出演の件も、台本もいい内容でしたし、とてもお人柄も良く、山際さんをはじめとする製作陣の熱意に動かされて、出演することにしました。

映像のことを語る時には、目を輝かせていらっしゃり、私も映像のことになると夢中になってしまうので、これから作っていきたい映画の構想のお話等、色々と共有させていただき、とても楽しかったのを覚えています。

山際新平さんの映像にささげた思いは、作品を通して、これからも生き続いていきます。

山際さんの最後となってしまったこの作品の上映会にあたり、私も、この作品をこれから見させて頂くのを楽しみにしておりますが、同じ映像界に生きるものとして、山際さんの思いをこれからも、私も、映画を見た皆さんも、皆が引き継ぎ頑張っていきますよ!とお伝えしたいです。

俳優・武道家 藤岡弘、 Hiroshi Fujioka

山際さんと一緒に仕事をした10年間。二人でよく映画会社やテレビ局に企画を持ち込みました。当初なかなか上手くいかなかったのですがお互い腐ることはありませんでした。自分たちの作品がいつか認められる日が来ると信じていたからです。それから数年後、仕事が次々と決まるようになり、打ち合わせの帰りは彼が品川まで送ってくれました。その日は少し疲れた様子だったので心配して声をかけたのですが、「僕は大丈夫、児島さんこそ倒れないでくださいね」と、いつもの人懐っこい笑みを浮かべました。その時の彼の横顔が今でも忘れられません。結局、それが最後となりました。

彼が逝って1年半になりますが、これくらいの歳月では彼を失った喪失感は消えないんだなと、実感しています。

脚本家 児島秀樹 Hideki Kojima

山際さんとは2011年沖縄で撮った「琉神マブヤー」からのお付き合いです。

それから「私の人生」「校歌の卒業式」と続いてテレビの「温水危機一髪」という番組で演出を任せていただき、「スクール・オブ・ナーシング」「メッセージ」と続くわけですが、山際さんとはまだまだやる企画がいっぱいあって、でも時間が無かったり出資者が決まらなかったり。でも山際さんはいつもニコニコしながら「足立内、いい作品を作り続ければきっといい風が吹いてくるから、予算が少なくても時間が無くてもじっくりそれを信じてやっていこう」と言っていました。

地方で撮影することが多かったのですが、どの作品も『その地方らしさ』を一番に考えている人でしたね。「校歌の卒業式」の時に伊勢で昔からの仲間と共に、生まれ育った土地で映画を撮るということがどんなに楽しいことか、それを教えていただきました。山際チルドレンのひとりとして、これからも山際さんから学んだことを伝えて行こうと思います。

映画監督 足立内 仁章 Satoshi Adachi

何でだろう……今も、ふと思う。

何で、ヤーミーは僕の事を気に入ってくれてたんだろう……。そして、笑っちゃうけど、

何で僕とヤーミーはどんなレストランでもオーダーが被ってしまったんだろう……。

カップルで賑わうお台場のイタリアン。前菜からデザート、ドリンクまで。もちろんメインも同じ。あの時は恥ずかしかったな。だから映画の好みも合った。だから、いつしか同じ会社で一緒に作品を創れたのは本当に幸せだった。ずっと最後まで共にする仲間が出来た。そう思ってた。

でも、何で、先に逝っちまったんだろ……        

何で、沢山の人に求められていたヤーミーが僕なんかより先に…………

あるプロデューサーが葬儀の時、僕に言った。「お前みたいな演出家を雇う奴は他にはいないな」

確かに、その通り。何でだろう……今も繰り返しそう思う。

映画監督 宇井 孝司 Takashi Ui

山際さんの事を思い出すと、全てがプッと吹き出してしまうような思い出だけが浮かびます。 耳をすますと、これまたプッと吹き出してしまうような、山際さん語録が聞こえてきます。

山際さんは、本当にお世話になったプロデューサーさんです。 一緒に作らせて頂いた映画は1本ですが、学ばせて頂いた事は沢山あります。 背筋がピンとなるというよりも、思わず吹きだしてしまう事が多く、そんなところが素敵な方でした。 人生をポジティブに生きていこうと決めている僕にとっては、山際さんはその先駆者で、先導を走るペースメーカーでした。

願わくば、もっと走って、サボりながら歩いても良くて、僕のような半人前の映画監督を一人前にして欲しかった。 一人前になった僕の姿を山際さんに見せて、逆にプッと笑って欲しかった、そう思っています。

亡くなる少し前、一緒にお食事をした時の話、鮮明に覚えています。 その時の話も山際さんらしいと言えばらしいのですが、数年前に一度入院されているし、心配なので突っ込んだのですが…遠慮せずもっと突っ込めばよかった、悔やんでも過去なので戻りません。 それでも山際さんは、天国でもニコニコしているんだと思うと、やっぱり僕もプッと笑ってしまうんです。 ありがとうございます、山際さん。 これからも一人前目指して、俺、適度に頑張ります。

映画監督&脚本家 松本卓也 Takuya Matsumoto

山際さんは、いつも明るく、自分より相手を想い、山際さんがいるだけでみんなが自然と笑顔になる、太陽のような存在でした。私は山際さんが手がけた映画、「キボウノトビラ」がデビュー作になるので、山際さんのおかげで今の私があると思っています。 
山際さんは弱音を一切見せない方でした。それ以上に今の仕事がとても楽しいといつもおっしゃっていました。そして、地元のこともとても愛していました。 
今回この上映会のお話を聞いて、私自身の地元でもある伊勢での上映会をすることを大変嬉しく思っております。山際さんは、より一層喜んでいることと思います。

本当にありがとうございます。

「命」とは何か・・・。ぜひ皆様お足をお運びくださいませ。 

女優 桐島ココ Koko Kirishima

山際さん、そちらは居心地いい感じかな?

あなたとは三年くらいの付き合いで、年齢も殆ど同じでした。だから、あなたの過去のキャリアやどんな風にそうなったのかとか、お互いに知らないで、なんか僕は一緒に仕事をしてみたかったから、山際さんをバーに誘ったりもしましたよね。僕の音楽CDをちゃんと聴いてくれて、お世辞じゃなく評価してくれたのは本当に嬉しかった。スクールオブナーシングを手始めに、一緒に仕事する計画でした。だからね、僕はもっと良いところを見せたかったのですよ。コレデモカッてね。

いま、時代が決して良い方に変わってる感じがしなくて、本当に信頼に値する人が居なくなって。つまり、山際さんにやっと出会えたのに……僕は試練ですよ。

児島さんを守ってくれてると思うけど、僕もよろしくお願いしますよ。

死んだからといって、まだまだ山際さんの出番はありますから。

作曲家 丸山和範 Kazunori Maruyama

山際プロデューサーという人は、私にとって作品を作り上げる上での伴走者であり、仲間であり、恩師です。

それまで全く経験のなかった映画主題歌の書き下ろしというチャレンジをさせてくださった山際プロデューサー。出来上がった曲をドキドキしながらお送りすると、わざわざ電話をくださり、「詩菜さん、すごくいいですよ。」とおっしゃっていただけた時には、本当に嬉しくて。こんなに素晴らしい映画と映画に関わる皆様と出会わせて頂いた事、この曲を書かせて頂いた事が何よりの財産です。

生前、この映画を口コミによって永きに渡り愛される映画にしたい、とおっしゃっておりました。

その夢の続きは私たちにバトンが託されたようです。

微力ながら私もその力になれるよう、頑張ります。

シンガーソングライター 佐々木詩菜 Sheena Sasaki

ヤミーこと山際新平さんと出会ったのは、制作会社ロボットだ。当時、自分はロボットのキャラクターアニメーション部でオリジナルキャラクターやアニメーション作品を作っていたのだが、映画部に入ったヤミーは、やや年若の自分に人なつっこく話しかけてくれた。そしたら、なんと母校が同じ伊勢高校だった。そういわれりゃ、そんな顔だ。話も弾みアニメーション映画の開発なども一緒させてもらった。その企画は実現に至らなかったが、いつも複数の企画を抱え実現の可能性をさぐっていた。ロボットでも、クロニクルに移ってからも、そのバイタリティでさまざまな映像作品を世に送り出したのだと思う。一緒にカタチにできた仕事はないが、そのにこやかな人当たりでいつも心をほぐし、はげましてもらっていた。……心からご冥福をお祈りいたします。

アニメーション作家 野村辰寿 Tatsutoshi Nomura

山際と僕は幼馴染で、家は隣なので中学校までは毎日ずっと一緒にいた。

彼とのエピソードは数え切れない程あるが、きっと彼はやめてくれと訴えるだろう・・・彼と僕は、気は合うが全く性格が違っていて僕は、いつも一点集中で物事を見たり考えたりしていたが、彼は広角的に観察をして物事を捉えていた。中学校の時は、野球もしたがロックやフォークのコンサートに行ったり、DJの真似事をしたりしたが提案者はいつも彼だった。そして、何かをする時にはシナリオの様な物を作成するのが得意だったと記憶している。今思うとその頃から映画の世界が好きだったのかもしれない。性格は穏やかで優しくマイペース。故郷を愛する彼は、一緒に「地域主役型映画」の文化を広めたいと最近はまた昔の様に一緒に動き出したところだった。残念だが、彼の残してくれた財産と心は僕が受け継いでいく事でこれからの人生を共に歩んで行こうと思う。

志摩ムービークルーズ代表 橋爪吉生 Kichio Hasizume

私にとっては初の商業映画プロデュース作品となった「スクール・オブ・ナーシング」ですが、昨今の低予算映画製作事情の多分に漏れず、この映画も完成までの道のりは本当に長く険しいものでした。ですが、企画の立ち上げから数年が経った2013年夏に初めて山際さんにお会いして「一緒にやろう!」となってからは、脚本の児島さんをご紹介いただき、その後、監督を務めることになる足立内さんや主役を演じることになる桐島さん、撮影スタッフも次々とご紹介いただき、、、それまでとは違うスピードで動き出しました。山際さんのおかげでたくさんのことを学ばせてもらいましたし、山際さんがいなければ、この作品は全く別のものになっていたことでしょう。

ようやく完成した映画を劇場で見ることなくあのようなことになってしまって本当に残念ですが、「全国各地で見てもらえる映画にしよう」という目標を掲げてやってきたので、劇場公開が叶わなかった伊勢でこうして上映会として見ていただける機会を作ってもらえたことに心より感謝いたします。伊勢での上映会はほんの一つの滴かもしれませんが、この滴から波紋が広がり、大きな波となるよう願っています。いつか、日本全国から「見たよ!いい映画だった!」という声を山際さんにも届けられたら・・・。そうなるように、まだまだ頑張りたいと思います。本当にありがとうございました。

プロデューサー 山﨑歩  Ayumu Yamasaki

まず「スクールオブナーシング」上映会開催にあたり、映画製作と上映会に関わりました総ての方に、父“山際新平”に代わり謝辞を述べさせて頂きます。本当に有難う御座います。また私自身も今回の上映会開催に際して一関係者として感謝しております。

“父”に関しまして、家族としましては「だらしないなぁ」と思うところなどもあり、手放しに賞賛することが出来ませんが、皆様からのコメントを読ませて頂き大変嬉しく、それ以上に誇りに感じております。

今回の「スクール・オブ・ナーシング」を始め、山際新平が関わった作品が少しでも皆様の心に残り、また糧になりましたら望外の幸せです。短くはありますが、これでコメントとさせて頂きます。

山際マリオ Mario Yamagiwa

新平君とは東京に行った時、いろんなところに連れて行ってもらったりしてました。 その折、彼の映画に対する熱意、愛情は常々聞いておりました。地元の人々の想いを伝えるべくその手段としての映画に本当に人生を捧げてたんだよね。 この映画は 看護士さんと患者さんの言動が介護の現場と同じように表現されていたと思う。でも私は初めにいきなり新平くんの死人の役の場面が出てきたのが一番焼き付いてます。その時は笑い話になってたんだけど、、、 いろんな人に観てもらいたいですね。

伊勢高校19期同級生 野村みのり Minori Nomura

新平とは、高校時代から、下宿が近くで知らないわけでは無かったのですが、クラブも違い、深い付き合いはありませんでした。

高校卒業後、私が1年遅れて入った大学のキャンパスで、新学期早々に偶然出会いました。

それから4年間、決して裕福ではない大学生活を共に送りました。

いつも一緒にいるわけでもなく、でも忘れた頃にふらっとやってきては、とりとめのない話をして過ごしたり、共通の友人達と

過ごしたりしていました。新平が作ったサークルに入って一緒に旅行にも行きました。

印象に残っているのは、いつも気遣いの人で、何とか周囲を楽しませようとしていたと思います。

楽しかった思い出しかありません。

大学卒業後、それぞれの道に進みましたが、結婚してからも横浜に行ったり、こちらに来たときは連絡を取ったりしていました。

ここ数年、会えなかったことが残念です。

高校・大学時代の友人 柴原 豊彦 Toyohiko Shibahara

山際新平さんを中学校三年間担任させていただきました。
人にやさしく、ユーモアがあり、大きな心でクラスをまとめるその力のすごさ等、彼の中学校時代のエピソードは語りつくせないほどたくさんありました。
しかし、私とプロデューサー時代彼との忘れることのできない思い出は二つあります。
その一つは「逆境ナイン」の撮影の時、「先生、応援のための楽器を貸してほしいのや」とたずねてきてくれました。勿論OK。楽器だけが映画に出演しましたが、彼の気持ちがすごくうれしかったです。
二つ目は「校歌の卒業式」で「先生出演してくれないか」と声をかけてくれました。これも即座にOK。今私の大切な宝物の1つとなっています。さらにこの時、出演されていました佐田様がたまたまコンサートの前だったので「先生とこピアノあるやろ」「練習させてくれないか。」と言ってきました。勿論OK。私の家での佐田様のすごい迫力を身をもって体に感じさせていただきました。
彼の一つ一つの行動には、将来を見すえた大きな夢がありました。 それが途中でと切れてしまった事は、本当に残念です。
天国から彼のえがいた夢の実現にむけて、大声で声をかけ、応援してくれることを祈っています。

元船越中学校教諭 田矢 寛子  Hiroko Taya

新平とは高校の時はクラスも別だったのであまり接点はなかった。 関東での高校の同窓会を機に40歳過ぎから付き合いが多くなった。 同期の友人のライブにはよく顔を出してくれ、一緒に楽しんだ。 麻雀も同期のメンバーとよくやっていたようだ。 忙しい身でありながら付き合いもよくいつも笑顔で周りを和ませてくれていた。

これまでにドラマ、映画、CM等、たくさんの作品に携わってきた新平。 最後の作品となった映画「スクール・オブ・ナーシング」、池袋の劇場で見てきた。 私の妻が看護学校の教師であったこともあり、興味深く見させてもらった。 国家試験合格に向け、一生懸命がんばっている看護学生達のことはよく妻から聞いていた。 年齢、性別、境遇、違っていてもみんな、立派な看護師になりたいという思いは共通。 そんな看護師のたまご達の姿がよく描かれていた作品だと思う。 今回主演の桐島ココさんは伊勢出身。以前も伊勢志摩で映画ロケをしたり、地元に対する思いが強かった新平。 廃校になる地元の中学校をテーマにした映画「校歌の卒業式〜キボウノトビラ〜」は今後、全国でシリーズ化したいと夢を語っていた。 それらの作品の中でも私のお気に入りはNHK BSプレミアムでやった「洞窟おじさん」。 リリー・フランキーの好演もあるが、素晴らしい作品だと思う。 これからも新平の作品が見られることを祈っている。 ありがとう~新平!

伊勢高校19期同級生 向井 淳 Jun Mukai

新ちゃん。
初盆が済み山際家のご先祖様たちは永らく住み慣れた大王町から横浜へ、貴方と一緒に引越しをしました。
お母さん以外は初めての新幹線に、さぞかし驚いたことでしょうね。

すっかり淋しくなってしまった大王です。

でも貴方が蒔いた種から出た小さな小さな芽を育て、志摩ムービークルーズの皆さんが賢島映画祭の第二回目を予定通り行い
その後も、中学校と同じく廃校が決まった船越小学校の記念映画を撮ろうと活動しています。

昨年までなら「お姉ちゃん泊めてな」と、貴方から電話が入るところですね。

亡くなってすぐはとても現実を受け入れることが出来ず、「ハイ、カット!」と貴方が現れるような気がして、どうか夢であってほしいとそればかりでした。一緒に歩み始め応援してくれている方々に多大な迷惑をかけ、何も告げず、たった一人で逝ってしまうなんて、貴方が一番本意ではなかったはずです。

そうであるなら、貴方の死はきっと何かの意味を持つ必然的なことで
それは何年も何十年もの時をかけて大きく花開き、多くの方に認めてもらえる事なのではないかと思うようになりました。

バカボンパパの言葉「これでイイのだ!」が大好きで、周りの人には湯たんぽのように暖かで、

自分の夢には熱く突き進んでいった。
山際新平という男が存在したことを皆様に覚えていてほしくて、今までもらったいっぱいのありがとうを文字にしました。

 

昭和三十四年三月二十三日。 「ダン、ダン、ダン、男子!!」
受話器を握り締めて叫ぶ祖父の声で、待望の男子誕生は瞬く間に皆が知ることになりました。
女・女・男。末っ子の長男です。

 


                                                                                                      中略

 


桜満開の四月五日。妹と二人、横浜で待つ貴方の元へ病の母を送りましたね。
新横浜のホームで「お母ちゃんよく帰ってきた。よく帰ってきた!!」と両手を大きく広げて待っていた貴方を忘れることができません。

会社に休職届けを出し、泊り込みの看病が始まりました。吐き気で殆どの食べ物が喉を通らない母に
「お母ちゃん。美味しいね、美味しいねぇ。」と根気よくスプーンを口元に運んでいました。オシメの取替えからすべて貴方がしてくれましたね。
母もそんな貴方のやさしさを知って、亡くなるギリギリまで車椅子でトイレに行くようにがんばってくれました。

「がんばったね。本当にお母ちゃん、ようがんばったね。」貴方に抱きかかえてもらって、眠るように母は息を引き取りました。

そんな時、リリー・フランキーさんの『東京タワー』読んで「まるで、新ちゃんとお母さんの事みたい!」と思いました。
「もうひとつの東京タワーという、新ちゃんの映画を作りたいね。」と訊ねてみると
「僕はあくまでも裏方さん。僕がプロデュースした作品で監督や俳優さんがどんどん人気者になってもらうのが仕事。家族みんなで観れて、楽しくなって思わず微笑んでしまうような映画を届けることができたら最高。」と大笑いしながら話をしてくれましたね。

新ちゃん。今月の船越小学校の撮影に来てくれませんか? 「どうも、どうも。」って満面の笑顔で現れてください。
貴方が着て旅立ったお気に入りの皮ジャンはまだ暑いから、黒いジャケットを用意しておきます。

今まで、いっぱいの夢をありがとう! いっぱいの楽しいをありがとう。


2016.9.5 姉

"ありがとう"の言霊

お姉さまから亡き新平くんに宛てたお手紙をお預かりいたしました。

長文のためほんの一部ではありますが披露させていただきます。

新平のことはとても残念です。 心が重くなっています。50代は早過ぎます。 本人の無念な気持ち、ご家族のことを思うと何と言っていいのかわかりません。 今週17日木曜日の原宿での映画スクールオブナーシングの試写で会う約束だったのです。 12月5日土曜日にはこの映画のスタッフが試写会のチラシを持ってきて、うちの受付に置いていきました。 17日は試写会だね、新平によろしく、、、なんて話したところでした。 昨年撮影前に主役の桐島ココちゃんが医療現場を見たことがないということで、土曜日午前中うちの診療所でうちの看護婦さんについて研修?見学?をしていただきました。もちろんその時にも新平は付き添って来ていました。主役の桐島ココちゃんをとても優しく見守っていました。新平は優しさ、人柄の良さが表情に出てるから、彼女もとても安心したように振る舞っていました。その日は患者さんに声優の方、鵜方出身の方がいて新平はチラシを見せて話を弾ませていました。 あの雰囲気ですから患者さんもとても楽しく聞いてくれて、声優のかたは早速映画に後援してくれました。 大学病院の関係者に新平を紹介をしても印象はとても良く大好評で、後援もしてくれたようです。 スクールオブナーシングのFacebookでの報告でも前に出ることなく陰に回ってとても頑張っていたと思います。熊本のスタッフや出演者など本当に慕われていたことがわかります。 このスクールオブナーシングは完成しましたが、最終目標ではなかったはずです。本人こそ志半ばだったでしょう。 新平の映画は優しさがいっぱいですから、まだまだたくさん制作してほしかったです。

 

新平とは伊勢高の入学時I組で一緒でした。 あいうえお順だったので大杉窓側、新平は廊下側で席は離れていましたが、ひょうひょうとしていつもニコニコしていた新平の表情は今でも覚えています。一目見たときからいいやつだろうなぁというのが第一印象です。 あっという間にみんなは新平と呼び山際と呼んでいる覚えはありません。今思えば、あんなに早くみんなからファーストネームで呼ばれるのは彼の人柄なんでしょう。 新平との一番の思いでは何と言っても文化祭でパンチDEデートをクラスで主催したときに一緒に司会をしたことです。 私が女性側、新平が男性側でした。 新平の下宿に泊まって、当時はビデオがなかったのでカセットテープに音だけ録音して「一目会ったその日から」「恋の花咲くことがある」、、、、、と練習しました。内容は忘れましたが、練習はそこそこに下宿で楽しく過ごしたと覚えています。そのパンチDEデートの写真が毎日新聞の三重版に「文化祭に人気テレビ番組が登場、、、」なんて記事で写真付きで掲載されました。写真は結構大きかったです。 私の伊勢高の思い出に残るイベントのひとつです。 2年以降は文系理系とクラスも違ってそんなに交流はなかったけど、ああいうやつだから憎めないし交友は続きました。

 

卒業後は全く会うこともなく過ぎていました。 それが再会したのは関東同窓会です。忘れたけど向井が逆境ナインの撮影に協力したのがきっかけで同窓会に出てくるようになりました。30年以上の離れていた感じはせずひょうひょうとした優しい感じはそのままだった。お互い白髪が目立っていたけど、全く30年離れた感覚を感じなかった。それどころか映画に懸ける熱い気持ちが伝わってきて、映画のことで刺激的な話を聞いたりしてとても楽しかった。 関東同窓会の時、色んな映画のチラシを持っていて、聞いてみると越賀中学閉校の校歌の映画の話だったので壇上に上がって宣伝していただきました。初代の同窓会長が越賀中学の出身だったので話も弾み諸先輩方とうまく交流していました。 新平は誰からも簡単に慕われるんだと思います。誰もが残念な気持ちでいっぱいでしょう。

伊勢高校19期同級生 大杉文雄 Fumio Ohsugi

「スクールオブナーシング」新平が天国へ旅立ったあと、上映している映画館を探して見に行った。 今までの彼の作品「逆境ナイン」や「ALWAYS 三丁目の夕日」のようなどちらかといえばコミカルな作品とは一線を画した作品だった。 もちろん、各所に彼らしいコミカルな場面はちりばめられているけれど作品全体からあふれるものは「命」という大きなテーマだった。 普通に見れば、病院の日常を通じてさまざまな人生の終焉とそれを見守り付き添う看護師の姿を描いた心温まる作品となるところだが、 新平の訃報に接した後でまったく違う見方をしてしまった。

この映画は新平のこれまでの生き様を集約し、また彼自身、自分の運命を 予知していたのではないかと思ってしまった。特に冒頭のシーンでは「こんなことをするからや!」と思わず叫びたくなった。 そして、お別れのあのときに見た彼の寝顔も同じだった。暖かい気持ちで見終わったとき、エンドロールとともに流れてきた曲は お別れの日にアカペラで唄ってくれた佐々木詩菜さんの「あいのことば」。この歌詞もまるで新平を送りだすために作られた曲。 この映画は今でも新平がすべて自分のために作った作品だと信じている。

東京での同窓会の帰り道、新平といろいろ話をした。彼の映画の話は尽きることがなかった。あの帰り道は忘れることはないだろう。 天国でも熱く映画の話をしているんだろうか?ご冥福を心からお祈りする。 ただひとつ彼に言いたい。そのときに交わした約束「堀北真希ちゃんにあわせたる」は未だ果たしてもらっていないぞ!

伊勢高校19期同級生 中川一志 Kazushi Nakagawa

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